Rubbish Collection in Hiratsuka

湘南平塚でゴミ拾いをしている人のブログ

ゴミ拾いをしていて非常に面倒くさいと思うこと

ゴミを頻繁に拾い続けている私ですが、スムーズにゴミ拾いが始まってスムーズに撤収したことはなかなかないです。何かしら面倒臭いことがおきます。趣味とはいえなかなかフラストレーションもたまるので捨てた人に対して心の中で悪態をついたりしてますが(笑汗)

ゴミ拾いに関して面倒臭いことはいくつもありますが代表的なものをあげるとすれば,

  • 風が鬱陶しくゴミ拾いの邪魔をしてくる。
  • 収集場所でもない歩道ぎわに放置してある家庭ゴミ
  • カラスが食い散らかして散乱してる生ゴミ
  • 建物の隙間に放ってある壊れた傘
  • まだ中身が入ってる洗剤ボトル
  • 飲み残しの缶コーヒー

といったところでしょうが。この6つはいつも私を悩ませてくれます。

 

風が鬱陶しくゴミ拾いの邪魔をしてくる。

平塚といえば、言わずと知れた相模湾に面した湘南に属する海の街です。遮るものがない海から吹く風は時折凄まじい強風になって市街に吹き付けます。特に平塚駅南口周辺の住宅街は高い建物がほとんどないため、風が非常に強く感じられ、傘をさして入ればあっという間に生地が裏返り壊れてしまいます。ビニール傘など役に立たないでしょう。

ゴミ拾いをする時、風の強い日に当たってしまうと、半ばゴミ拾いどころではなくなります。まず入っているゴミが少ない袋は暴れまくり、ゴミを入れようと袋の口を開けた瞬間にちり紙や、菓子パンの袋などはあっという間に宙に舞ってしまいせっかく拾い集めたゴミがまた路上に散乱するという結果になります。

風の強い日は本当にイライラします。袋は暴れるわ、拾おうとしたゴミは私から逃げていくは、大きなゴミを拾おうとゴミの入った袋を路上に置いたところ一気に風が袋をさらっていくわ。非常に難易度が高いです。

 

収集場所でもない歩道ぎわに放置してある家庭ゴミ

私が手に持てるゴミの量は限られてます。ましてや大きなゴミ袋に入っている家庭ゴミの場合は片手で一つしか持つ余裕がありません。ポイ捨てのゴミを収集するための袋は、燃えるゴミ、燃えないゴミ、瓶、缶など複数の袋を反対の手で持つ必要があり、結局その日拾えるゴミの量が極端の減ります。もはや家庭ゴミを拾った時点でその日のゴミ拾いは終了と言っても過言ではありません。

拾わなければいいという意見も当然あるでしょうが、発見してしまったら拾うしかないでしょう?それに落ちているゴミはできるだけ拾うというのが私のポリシーですので拾わないわけにはいきません。というわけで家庭ゴミは私のスムーズなゴミ拾いを非常に邪魔してくれる存在です。

 

カラスが食い散らかして散乱してる生ゴミ

ゴミ収集員の方はカラスが食い散らかしたゴミまでは片付けない。放置です。放置されたゴミはさらに多くのカラスにターゲットにされます。ゴミを襲うカラスはいっぴきだけではないのです。ゴミを漁るカラスの数が多ければ多いほどゴミは広範囲に広がります。私のゴミ拾いの時間は限られてます。カラスがゴミを荒らせばそのエリアだけでゴミ拾いが終了です。

人が集まる場所で啓蒙活動をしたいのに人気がない住宅地のど真ん中で細々と片付けなければならなくなるのでフラストレーションが溜まります。

 

建物の隙間に放ってある壊れた傘

平塚は風が強い。なので雨天の時傘が壊れる確率もとても高い。特にビニール傘なんかは平塚では何の役にも立たない。その証拠に生地が逆さまになった状態で捨てられている傘が建物の間によく突っ込まれているのを確認できる。ビニール傘は生地がひっくり返ると骨組みまでぶっ壊れるので、生地が外れて骨組みの先端がむき出しなる。これを拾うんだが手が痛くなる。何度か手を切った。また壊れた傘の骨組みは大概開いた状態になるので持つ時非常にかさばる。そのためゴミを拾う数が傘を拾った後激減する。ゴミを新たに見つけても傘一つでキャパシティオーバーになってしまうため非常に厄介なゴミだ。   

まだ中身が入ってる洗剤ボトル

これは捨てるのに非常に困ります。大量の洗剤を下水に流すのは非常に問題があります。これは捨て方を役所に相談するかしないといけないので非常に手間がかかりますし、ゴミの保管場所に置いても近隣住民に嫌がられるので自宅で保管するしかないのです。リンス、シャンプー、食器洗剤、柔軟剤 最後まで使ってください。

飲み残しの缶コーヒー

ゴミを拾う時、分別しなければならないため、袋をいくつも持ちながらゴミを拾わなければなりません。そのため拾ったゴミを入れる袋はレジ袋中ぐらいの大きさしかありません。そのため拾える缶の数を増やすために、空き缶を発見するたびにその場で踏んづけて潰すんですが、中身が入っていることを確認せずに缶を潰すと勢いよく中身が飛び出て思いっきり服や顔にかかります。

このときばかりは殺意を覚えます。缶コーヒーなんてそんなに量がないんだから飲み干してください。飲み残しは排水溝に流すかしてほしいといつもおもってます。まあポイ捨てする人にそんなことは期待できないんですけどね。

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ゴミ拾い、やるのであれば計画的に、しかし私は勧めません

さて私はゴミ拾いをゴミポイ捨ての啓蒙活動の一環としてやっています。なるべく路上にゴミを捨てづらい雰囲気を作るために孤軍奮闘しているわけですが、私はゴミ拾いはあまり奨励はしません。だって皆さんゴミ拾いをしようにも捨てる場所がないでしょ?

私の場合は自宅のマンションにある程度ゴミを蓄積し保管できる倉庫があるのでそこに拾ってきたゴミを捨てます。近所の方には奇異な目で見られますし外から運んできたゴミを捨てる事を快く思っていない方がいらっしゃいますが、常識の範囲内でゴミを置かせてもらってます。常識の範囲内というのは、なるべく拾ったゴミを少なく持ち帰るということです。拾ったゴミはゴミの収集日に便乗してある程度収集場所に捨てて最低限のゴミだけ持ち帰ります。

当たり前ですが、ゴミ拾いはゴミを捨てる場所が必要です。通常一軒家やある程度施設や設備を兼ね備えたマンション以外ではゴミを収集日まで保管する場所を確保するのが難しい現状です。かといって役所に相談して捨てる場所を指定されたとしても、指定された場所に行くにも時間がかかるとしたら継続してゴミ拾いをすることは難しいでしょう。

結局、現状ではボランティアを広域的に募集して指定した日に一気にゴミを拾うしかないという状況です。個人でゴミ拾いをするのはなかなか難しいでしょう。

行政はポイ捨ての対策に対する優先順位の度合いは非常に低いです。行政の美化に対する考え方が個人の自己責任に頼る姿勢を改善してゴミを効率的、生産的に処分するインフラを整えないとなかなかゴミ拾いをする方の良心が報われることは難しいでしょう。

もし自主的にゴミ拾いをやりたいというのであれば場所を確保するのがまずやらなければならないことです。拾ったわいいが捨てる場所がないとなると結局自分の部屋に持ち帰ってベランダ等で拾ったゴミの種類が該当する収集日まで保管しなければなりません。頻繁にゴミ拾いをやればたちまち自分の生活スペースが拾ってきたゴミで溢れかえり近隣住民の苦情の原因になりますし、そもそも心情的に自分の生活スペースにに野外で拾ってきたゴミを保管したいと思う人なんていないでしょう?

行政が協力してくれなれけばゴミ拾いは計画的にやらなければなりません。まずゴミの保管場所を気にしなくて良い拾い方は、ゴミの収集日に指定された種類のゴミだけを拾って収集車がゴミを回収するまでに拾ったゴミを出すということです。

拾うゴミを選り好みしているようでなんともやるせない感じですが、場所がないのであればこういった方法から始めてみるということをお勧めします。

個人でやる場合には、役所と相談してゴミの保管場所の使用許可をもらいある程度時間に余裕がある時にやる方がいいでしょう。頻繁にやることは全くお勧めできません。

 

ただゴミ拾いに対する理解が世間に少しずつ浸透していけば、ゴミを保管する場所を提供してくれるかもしれません。アプリでそういうプラットフォームがあればといつも思ってます。

 

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自販機のゴミ箱溢れかえる ゴミ箱の設置が必要じゃないか?

ここ最近は自販機周辺のゴミがすごく目立ちます。散らかっているゴミのほとんどは駅周辺のコンビニで購入されたお弁当のパッケージやペットボトルやビールの缶です。なぜ分かるのか。袋の中にレシートが入っているからです。

自販機のゴミ箱などにこうしたゴミが集中するのは昨日今日に始まった話ではないですが、やはり捨てる方々は、手軽に買った商品のゴミは手軽にその場に捨てたいという本音が見え隠れします。"こんな煩わしいごみをなんで家までわざわざ持って帰らなければならないのか"と考えているのではないでしょうか

”自分で出したゴミは自分で持ち帰る” 正論として理解している人はいるでしょう。しかし自販機周辺の散らかりようを見る限り、この考え方に抵抗を持っている人は割と多いように感じます。

私も自販機で購入したペットボトルを飲み終わった後すぐに捨てたい衝動に駆られます。なんども言いますが、ゴミ箱設置によるゴミを捨てることに対する利便性は必要です。ルールや自己責任に抑圧された社会ではいずれ歪みがきます。現に自販機のゴミ箱に大量のゴミが集中しているのですから。日本人はそれでも決まりごとに従順ですがあまり行政は日本人の民度に期待しすぎるのもよくありません。

ゴミのポイ捨て問題は、ゴミをどこでも気軽にゴミ箱に捨てることができるという利便性の観点からも改善が必要です。ゴミのポイ捨てに関する条例などは、取り締まる人間がその行為を現認していなければ全く効果がありませんし、根本的な解決にはなりません。

オーストラリアなどでは州によって街の美化のための予算が組まれていて、繁華街では毎日のように人気がいなくなった夜中に道路清掃車があちこちで作業してますし、ゴミ箱のゴミも定期的に回収しています。それだけ美化意識が高いんです。

日本の行政は家庭ゴミが公共のゴミ箱に投入されることをリスクに考えていますが、そんなのはオーストラリアも一緒です。私がメルボルンに一時住んでいた時は家庭ゴミが公共のゴミに捨てられることなんか日常茶飯事でした。

もっとひどかったのは酒に酔った若者が爆竹をゴミ箱の中に仕込んでゴミ箱が大炎上してましたし、自転車がゴミ箱の中に突っ込んであったのも見ました。

オーストラリアはこういったリスクがあってもゴミ箱の設置は取りやめません。むしろ公園などでは積極的に設置している印象を受けました。

ゴミを持ち帰るという"ルール"を心の中で不平に思いながら大多数は従順に応じているという日本人の性質から考えれば、多様な民族が各々の価値観で暮らしているオーストラリアに比べれば、ゴミ箱を設置して考えられるリスクなどリスクの範疇に入らないのではないでしょうか? それこそ日本人全体としての民度を性善説の観点からもっと信頼していいのではないでしょうか?

日本では何かとルールや自己責任を押し付ける風潮が強いです。ゴミ出しの日に種類が違うゴミは受け取らず、ゴミを出した本人が受け取りに来るまでその場に放置。ゴミは持って帰るのが基本。それに便乗してゴミ箱を撤去、ないし設置しない自販機が増え、コンビニはゴミ箱を外に出すのをやめた。

今の日本は美化意識は非常に薄いです。その代わりに現行のルールを強制することに非常に強いこだわりを見せます。まったく合理的ではない考え方です。いずれ歪みが現れます。他人にルールを強制するのではなく、もっと懐を深く、捨てたい人の気持ちに立って考えを巡らすというのも重要です。特に日本人はこういった他人の配慮が欠けています。杓子定規にルールだけが全てを解決するのではないということを行政の方々にはよく考えていただきたいと思ってます。

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いい加減ゴミの収集場所のカラス対策をお願いします!

今日の拾ったゴミの大半はカラスが散らかしたものです。ゴミ収集場所のカラス対策はするべきです。町内会などで箱型のゴミ収集ボックスを設置するか、大容量ドラム型のゴミ箱などの設置を検討してください。網ではカラスの襲撃を防ぎきれません。

襲撃されたゴミはそのまま放置されます、収集員の方は時間通りにエリアをトラックで回るため掃除はしません。結局誰かがそのゴミを片付けることになるので、この問題は放置せずに早急に考えるべきです。

 

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駅前の駐輪場に設置されている自販機の横に設置されているゴミ箱ですが、毎回毎回ゴミが集中してます。ゴミ箱の中には家庭ゴミがごっそりと捨てられてました。捨てられているゴミは多種に及びます。ゴミ箱の周りにも入りきらなかった缶やペットボトルが捨てられています。

入りきらないゴミをゴミ箱周辺に置いていく行為はポイ捨てと変わりません。もう少しモラルを持った行動をお願いします。

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ポイ捨てをする人に注意しても全くの無駄、まずは気づいてもらおう!

昨夜、犬をつれた男性が歩きタバコをしているのを仕事の帰り際に目撃しました。彼は口にくわえたタバコを足元に落としたかと思うと靴でそのタバコを踏み潰し歩き去って行きました。

私はタバコのポイ捨てを目撃したわけですが、その男性の所作は景色に溶け込むほど自然で、タバコを路上に捨てることがさも当たり前のような雰囲気でした。罪悪感など微塵も感じません。

私は目の前で捨てている動作に一瞬気づかなかったほどです。それほど自然な動作だったということです。私もたしなめるように注意をしましたが、私を無視して歩いて行ってしまいました。

物を路上に捨てることに対して罪悪感を感じていない、むしろその行為になんら疑問を感じていない人を諌めるような行動をとっても徒労に終わるでしょう。それはそうです、掃除をしている側の人間や美化意識が高い人間などとは価値観やモラルが全く相容れないのですから。彼らにとっては多少のゴミを路上に捨てても問題ない、むしろなぜそれが許されないのかと思っているかもしれません。

最近歩道わきに"ポイ捨て禁止"の看板をよく見かけますが、市役所の施策でしょうかあるいは町内会の施策でしょうか。町全体の美化意識を高めるという点では何らかの効果があるのかもしれませんが、実は看板の周辺にはゴミが散乱していることがあります。結局ポイ捨てをする人に対して諌めたり説得することが彼らの反モラル的な行動を抑制するわけではないのです。

人によっては一時的には効果があるかもしれませんが、完全に彼らの常識覆すのは難しいでしょう。

重要なことは"ゴミを捨てるのは憚られる"ということが当たり前だという雰囲気を作っていかなければなりません。彼らの行動を変えるには多数派の人間が彼らの常識とは全く異なるということを強調して理解させなければならないということです。

先の例の"ポイ捨て禁止"の看板は"街を綺麗にしてくれてありがとう"と書くと、ポイ捨てをした人間の視点ではその他大勢が街を綺麗に保つ活動を意識的にやっていてそれが当たり前になっているような印象を受けるんです。

"ポイ捨て禁止"という看板は、ポイ捨てが当たり前だと感じている人間には、ポイ捨てを禁止する側の人間の価値観の押し付けにしか見えません。

このように自分で自分の行為が反モラル的だと気づかせる布石を巻いていくことが、ポイ捨てをする人間の意識の変革につながります。言葉や文字で直接その行為を糾弾することは全くもって意味のないことです。

ゴミ拾いも同様です。このブログでなんどもゴミ拾いは啓蒙活動だと主張してますが、ゴミ拾いの狙いは、ポイ捨てをする人に対して、なんで清掃員じゃない一般人がゴミをわざわざ拾っているんだという疑問を持たせることです。

中には偽善じゃないの?と訝しがる人もいるかもしれません。でもそういう人の意識を変えるのは次のステップです。まずはボーッと私の作業を見て何をしているんだろう?と興味を持ってもらい、疑問を持ってもらいたいんです。

 

私が毎日同じエリアを掃除すれば、彼らが私に対して抱えている疑問はなかなか頭を離れないでしょう?根気強く行動して気づいてもらうというのが人の行動に影響を与えるにはとても効果的なんです。まあまだ私は石ころと同じような存在かもしれませんが。。。

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掃除、ゴミ拾いの教育は感謝を通して精神的なベネフィットを与えましょう

"お片づけしましょう!" 皆さんが、まだ保育園や幼稚園にいたころ、教育一環として誰しもが自身の両親や周りの大人、先生たちからしつけられる"お片づけ"。自分で遊んだおもちゃを自分の手で片付ける体験をする最初の一歩です。自分の行為にに対する責任を芽生えさせる訓練としては最も初歩的なものです。まだ自立心や自己規律が備わってない子供には大人と一緒になって"使った物を片付ける"という責任感を養っていきます。

さて歳を取るにつれて親と過ごす時間より、自分自身のために多くの時間を使うようになります。思春期には親の扶養のもとで生活しているものの各々の行動に関しては自主性をある程度認められるようになり、自由が手に入るようになります。自由が手に入れば、最も自分の欲求を満たされる行動をとります。

掃除というのは本能的な欲求を満たす行動から最もかけ離れた、自己規律が求められる行動です。社会性が備わった大人でも自分を律する姿勢を貫くというのは非常に難しいものです。また最もメリットを感じにくい行動は強制力を失えば、必要性を感じるまでやらないか選択肢から消されるということになります。

物質的な豊かさや、快楽に意識が向けられるあまり精神的なベネフィットについては、ほとんどの人は考え方が及んでません。自己規律や主体性を持って掃除をする、人を助けるといった行動は物質的な見返りはほとんどない代わりに、精神的な豊かさが手に入ります。

精神的な豊かさは無形で、残るものではありませんし、自分が特になることを期待するものではありません。感じるものです。ですから自分の欲求を満たす行動の末に何らかの成果や報酬を期待している多くの現代人は理解しにくいところではありますが、掃除をするというのは精神的な感性を磨くという意味では非常に重要なのです。

これは責任感や義務感、強制と一線を画す考え方です。ですから”お片づけ”の教育もこのポイントを常に意識しなければなりません。

最もこのベネフィットを感じやすいのは人から感謝をされた時です。感謝をされるという経験は精神的な感性や豊かさを磨いていくのに非常に役立ちます。ここに主体性の鍵が隠されているわけです。誰しも純粋に人の役に立って人の愛を感じたいと潜在的に願ってます。その部分をうまく利用するわけです。

"自分で散らかしたら自分で掃除しよう"と責任感を持たせるのは重要なことですが、それだけでは自己規律心を養うことはできません。できるだけ子供には、掃除したことに対して感謝を伝えるということをしたほうがいいと私は思っています。それが自分で散らかしたおもちゃを自分で片付けるという行為に対してもです。

片付けて当たり前という感覚では義務感や強制力によってしか当人を律することができず親の強制から解かれれば極端に片付けることに対する優先順位が下がります。

責任感は社会的に人間生活を営むには必要不可欠な能力ですが、やはり多くの人にとってはプレッシャーでありストレスです。掃除に限った話ではないですが主体性を養うには感謝を通して精神的なベネフィットを与えた方がベターです。

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すみません 昨日貼り忘れたゴミの写真です。

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公園に落ちているゴミです。ゴミの内容はお菓子屋ジュース類です。子供が捨てたものと思われます。近くにはタバコの吸い殻が落ちていました。子供は大人の行動をよく見ているものです。

 

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今日のゴミ。大漁でした。空き缶が多かったですね(^-^;)

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私の(ゴミ拾い)習慣に対する考え方について

さてこのブログを立ち上げてもう一ヶ月というところです。毎日活動の記録を更新し続けて私の活動を世間に啓蒙し続けています。PV等の指標を見てもまだまだ全然ネット上での影響力は小さいですが、この活動を通して少しでも"ポイ捨て"をしている人が自分の行動を振り返り環境美化に意識を向けるキッカケになって欲しいですし、行政がイニシアチブをとって公共のゴミ箱を設置し、積極的に美化を推進する雰囲気になって欲しいと思っています。

まだまだ小さな個人の活動ですし誰にも見向きもされませんが、これが私の当面の目標になっています。

このような目標は私がゴミ拾いを当初始めた時は持っていませんでした。はじめたきっかけは、人の役に立つという動機から始まる行動は精神的な安定と余裕をもたらすというビジネス記事を読んでからでした。

それから無心で毎日30分から1時間の間ゴミを拾い続け気づけばゴミ拾いをする理由が自分の個人的な問題を解決することからゴミのポイ捨ての問題を解決したいというものに変わっていました。続けていくうちに心境の変化が現れて、心構えが変わり大きな目標が徐々に脳裏に生成されていくというのはよくあります。

私自身仕事以外で習慣化できている物事というのはごく限られたものしかありませんが、主体的な考えに基づいて行動を始め、その行動を継続しているというのは今回が初めてのケースです。

今日は皆さんの苦手な習慣を身につけるということについてお話をしたいと思います。

習慣を自ら身に付けたいと強く願う時、何か大きな目標の達成を心に描いている場合がほとんどではないでしょうか?

気を勇んで何か大きな目標を設定し、目標に向かって一生懸命に打ち込んだ結果、自分の思い描いていた青写真が現実のものとなるストーリーを脳裏に描いているのではないでしょうか。

しかし自分が告げた目標を予定通りに達成できる人などほとんどいません。物事が実現するプロセスというのは様々なファクターが絡み合っており、努力ではどうにもならない現実があります。 

人生のイベントでは様々な横槍や目標の邪魔をするような事象が山ほどありそれ乗り越えてもさらなる困難が降りかかるということもあります。

これは目標を固定的にとらえた結果引き寄せる現実です。全ての条件が描いた目標通りに整うことなどほとんどありません、固定的に目標をとらえるということは、あらゆる不測の事態に真正面から独力で解決し、様々な条件も自分の力で整えていくという途方も無い苦労が発生することなんです。

よほどの精神力がなければ、そのストレスに耐えかねて習慣の継続を断念してしまうでしょう。継続の力は、より目先の目標を柔軟に変えていくことで可能になる能力です。遠い先の未来など、人間の予想通りにいくほど世界はシンプルにできていません。もっと言えば、今日、本日、今にフォーカスして行動していなければ習慣など身につきません。

ゴミ拾いの例でいくと、先に述べたように最初の目標はごく個人的な部分で、自分の病んでいる精神を正常に戻すことでした。それが徐々に世間様の役に立つような目標に変わってきたわけです。

今、ゴミ拾いを現在楽しんでいるという状態があり、また遠くに霞んで見える、人の行動や意識を変えるという目標があるためこの活動が継続できているんです。

私が座右の銘にしている習慣のための10過剰です。大いに参考にされたし!

 

  • 気を勇んで大きなことを達成しようと思わない
  • どんなに小さなことでも着手する
  • 小さな成果を馬鹿にしない
  • 自分の行動に喜びを感じる
  • 今、その瞬間を楽しむ
  • 目標は大きくぼんやりと
  • 見返りを期待しない
  • 努力だと思うことをやめる
  • 人にどうみられるかを考えるのをやめる
  • 自分の行動を信じる