Rubbish Collection in Hiratsuka

湘南平塚でゴミ拾いをしている人のブログ

平塚駅前を掃除。連日の猛暑でペットボトルのゴミが増えています。

台風の来襲によってなかなかゴミ拾いが敢行できずにいましたが、本日多少の霧雨はありましたが駅周辺を掃除してきました。

ニュースやメディアをご覧になってもわかるとおり日本の気候はインド並みの猛暑が続いており、清涼飲料水の売り上げが前年度の3倍だか4倍に倍増して生産が追いつかないという話もちらほら聞きます。

当然ゴミの種類もペットボトルが非常に多くなります。タバコに比べてサイズが大きく目立ちやすいペットボトルはあからさまに路上に捨てる行為をする人は少ないですが、そのかわりに自販機のゴミ箱周辺に飲み終わったペットボトル、飲みかけのペットボトル、缶、瓶を大量に置き去りにしていくケースが非常に多い。

自販機のゴミ箱はあっという間にいっぱいになりますから、そのゴミ箱にペットボトルを捨てることを期待してきた人は例外なくゴミ箱の周りに置き去りにします。普段ゴミをポイ捨てしないような人もゴミ箱の周辺なら大丈夫だと思って置き去っていく人が多いように思います。

手軽に購入できるペットボトルの需要が気候や季節といった要因で急拡大していることを考えればそれに応じて捨てる場所も当然増やす必然性が出てくると思っています。

ペットボトル購入者の心情を考えれば、出先で出たペットボトルのゴミを早くどこかに捨てたいというのが当然でしょう。全てに家に持ち帰る、会社に持ち帰るという理屈は通らないと思います。もう少し自治体の方でゴミを捨てることの利便性について一考してくれればと思うんですが、優先順位はかなり低いみたいです。

皆さん、この猛暑ですからペットボトル一本ぐらいじゃ喉の渇きを潤すことなんてできないでしょう?私も遠出する場合は多いときで3本くらい中型のペットボトル買いますよ。でも全然ゴミ箱見つからないし、カバンには大きすぎて入らないんです。仕方なくコンビニで袋をもらって、それに入れて持ち歩くようにはしてますが、非常に煩わしいです。

 

街の美化という観点から考えると国民の自己責任に任せているのか日本の行政は途上国並みに無関心です。自己責任論は利便性を向上させずに、不便を自分の責任において甘んじて受け入れるという姿勢ですから、イノベーションにはかけ離れた考え方です。

以前ホリエモンが病院の待ち時間についてtwitterで言及して炎上したことがありましたが、日本人はとにかく"こうあるべきだ"という常識や思い込みが思考を支配していて、"こうしたら良くなるのではないか"という建設的なアイディアを封じ込める節があるように思います。

ゴミ箱の件もそうです。公共のゴミ箱の設置は家庭ゴミのリスクやそれにかかる税金負担の話ばかりが先行して設置を取りやめることが正しいという判断が大多数です。ゴミのポイ捨てに対するモラルがゴミ箱を設置している他の国よりも高いにも関わらずです。

自己責任論は極めて日本特有な考えだなと思います。批判の仕方が、「迷惑をかけた」とか「税金泥棒」とか世間を騒がせたというバッシングの仕方ですよね。これは自己責任というよりも、集団責任論に近いんじゃないかと思います。班行動の責任の取り方のように、誰かのミスが全体に迷惑をかけるみたいな考えに近いのかなと感じています。

話が脱線してしまいましたが、ゴミのポイ捨ての問題はゴミをポイ捨てする人間を注意しても、私がゴミ拾いを続けて啓蒙活動しても、法律を設けて追加的な罰則を規定しても根本的な解決にはならないんです。ゴミのポイ捨てに対する行政の関心は極めて低いかも知れませんが、結局のところゴミを捨てることに対する利便性を向上させる仕組みを作っていかなければ見違えるほど街が綺麗になるということにはならないと私は思っています。

ゴミを捨てる人間が悪いと決めつけて注意することは簡単ですしかし、根本的な解決を目指すにはゴミを捨てたい人の気持ちになって解決策を見出すことが重要だと思います。あなたはゴミを手にして歩いている時、世間の認識とは別に、純粋にどう思っているかを考えてみてください。早く捨てたいのにゴミ箱がないということであればやはり利便性は低いと思います。

 

 

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平塚ビーチパークから花水方面の海岸を掃除しました。

現在ゴミ拾いは平塚ビーチパークから西方向、花水方面を中心に、早朝から海岸の掃除をしています。この時期は花火をやる若者が多く、特にビーチパークから少し離れた警備員に見つからない位置で花火をやっているようです。火消しは専ら海水でバケツも持ってこない状態でコンビニで購入した花火セットをその場で開封しライターで花火をつけて遊んでいるようです。

早朝花水方面の波打ち際には花火のゴミがたくさん落ちています。花火をやるのは構いませんが、ゴミを散らかしていくというのはいささか花火で遊ぶ者としてのモラルに欠けているように思います。

ゴミ箱は午後6時まではビーチパークのウッドデッキの中央に置いてあります。それを過ぎると片付けられてしまうのでもし夜中に花火をして遊びたいというのならぜひゴミを持ち帰ることを前提でいらっしゃっていただけると幸いです。

またバケツはかならず用意していただきたいです。湘南の海はそれほど綺麗ではありませんが、その状況に甘んじて海を汚すことを厭わない考え方を改めていただきたいです。ゴミ箱周辺にゴミが散乱しているにも関わらず便乗してゴミを置き去る行為と同じです。

夏のひとときは仲間との最高の思い出を作る季節ですが、楽しさと一緒に是非自制心を持って、自分の不道徳の尻拭い他人にさせないで、ご自分で世話をしてください。

善悪の判断はご自分の直感に従って行動してください。周りが制止してもバカにしても疎んじても自分が正しいと思うことをしてください。

 

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もっと人に優しさを向けられる世の中になって欲しいと思ってます。

 現代では、自分のことで精一杯、他人のことなんかとてもじゃないけど考えてる余裕はないというひとはほとんどでしょう。お金がなくても幸せなんて綺麗ごとなんて言えないと思います。

苦しい生活の中で小さな幸せを見つけていくというのは非常に難しいかもしれません。自分自身、自分の家族の幸せを守り抜くことが人生の第一義になるということは至極真っ当であるように思います。

自分が幸せになれなかったら他人なんて幸せにできませんから。だから経済的、精神的に余裕ある人ができる範囲で無償の援助や奉仕を提供すればいいと思うのです。私の場合でしたらゴミ拾いですし、みなさんの場合でも何かできることはあるかもしれません。

あなたが人並みに生活ができているというならその心の余裕をすこし人のために分けてあげればなと思います。人のために対価を得ることを度外視して時間を使うかどうかは完全に価値観が分かれるところですが、今以上の収入や富を得るために過剰な努力を自分に強いて精神的な負担が心を平成を奪うのであれば、私は人に喜ばれることをして精神的に充実したほうがいいと思っています。

今は資本主義なので当然収入による格差はありますし、出自による不平等はあります。できるだけ他人の苦しい状況を、自己責任論によって無関心を貫くのではなく、小さな事でも自分ができる最善を人、コミュニティ、地域に施せば少しずつ生きづらい世の中が緩和されていくのではないでしょうか。

生活に困窮している人はもっと人に頼ることができ、生活に余裕がある人は人に無償の善を施すことができるような社会の雰囲気に変わればなと思っていますが。

私は甘いでしょうか。 私のゴミ拾いは立派に他人に施していると言えるかどうかわかりませんが、私はお金を得ることとは別に、自分ができる最善の奉仕をするだけです。

 

 

 

 

感謝ってどうやってやるの?

以前当たり前のことに感謝することは"人に役にたちたい"という自然と溢れ出る行動がモラルを形作るということを話しました。しかし実際のところ当たり前と認識していることに対して意識して感謝するということは難しいと思いますし、実際に実践したところで形式的になってしまうと思います。

rubbish-collection.hatenablog.com

感謝は心の状態が重要です。皆さんはどういうときに感謝しますでしょうか?思ってもみないサプライズに感動した時でしょうか?念願がかなって何かが実現した時でしょうか?何か自分の目標が達成した時でしょうか?人生の中でこのようなイベントがあった時にどのような心の状態だったでしょうか? 自分の興奮と幸せを誰かと分かち合いたい!そしてその幸福のうちに自然と感謝の気持ちが溢れ出てくるのではないでしょうか?

そうです”幸せ”という気持ちは何ものにも変えがたいプラスのエネルギーを発散させ、誰かに伝えたい、感謝したいという気持ちにさせてくれるものです。感謝というのは単に発声するとか、心の中で呟くというものではなく、どのような心の状態で自分の気持ちを行動で表すかが重要です。

嫉妬、焦燥感、他人との比較、何かへの強い執着、競争心、闘争心、悲観論に基づく向上心といった、自分はこうであるべきだという理想論を掲げて、現状を悲観している心の状態では目の前の幸福に気づかないんのではないでしょうか。

自分の現状への不満はさらなる欠乏を呼び起こします。特に現代人は自分のことで頭がいっぱいで常に不安や焦燥感に苛まれて幸せと感じることを拒否しているように見受けられます。もっと上を目指さなければならない、もっと収入を上げなければならないと

実現したい夢に対する努力を諦めろととはいってません。ただ物事への過度な執着や、べき論を旨とする義務的な努力は例外なく一片の心の余裕も奪いますし、成果の上がらない自分に苛立ち、自分自身を攻撃し始めます。これでは感謝のしようがありません。

人生においては達観してある程度流れに任せるということも必要です。幸せであるというのは心が満ち足りている状態です。しかし世の中の人々はできるだけ自分のところに利益や資産を確保しようと欠乏感や欲望を原動力にして日々の仕事に勤しんでいます。現代の経営者も欠乏感からくる欲望を肯定している人は多いですが精神的な代償を負っている人はかなり多いでしょう。

本来物々交換をしていた時代では、利己的な利益という発想よりは豊作を皆で喜びそしてそれを分け隔てなく還元する社会システムであったはずです。利益という考え方から解き放たれて皆で幸福を分かち合うというか、自分の幸せをベースにして他人の幸せを願うという原動力によって事がなされるということが私自身望ましいと思いますが、資本主義が台頭しているこの世の中では実現が非常に難しいと思います。

であればこそ、理想主義的になりますが、仕事も自分の収入や利益を優先的に考えるのではなくどのように自分が作り出した価値を還元できるか、幸せを分かち合えるかを優先的に考えるべきです。

幸福感は感謝をする上で最も基礎的な心の状態です。当たり前のことに感謝することは目の前の幸せに気づくことと同義に私は捉えてます。根本的にいまの自分の幸福にどれだけ気づいているかが様々なことへ感謝できるかどうかの分かれ目です。

もっと根源的なことを言いましょう。大地がなければ食物を育てられません、大地がなければ家が立てられません。私たちは大地がなければ生きていけません。大地があることを幸福に感じますか? それとも当たり前すぎて考えたこともなかったでしょうか?

こう言った事実に気付けるかどうか、そして幸せを感じることができるかどうか、そして感謝できるかどうかが幸福な心を作る重要な考え方です。永続的な幸福感とは様々な犠牲の末に手に入れた地位や名誉、利益によってもたらされるものではなく、日々の心の持ちようによって形作られていくということを付け加えておきます。

ウィリアムジェームスはこう述べてます

心が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる

 

大地に生かされていることに気づき感謝したあなたは、ゴミを路上に捨てようと思いますか?タバコを捨てようと思いますか?おもむろにタンを道路に向かって吐き出しますか?

まあ私も偉そうなこと言えないんですが、自分の幸せを見つけて、自分の心の状態を大切にしましょうという話でした。

 

 

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働くことについて

私は特段キリストのイデオロギーを継ぐ者ではありませんし、その他宗教においても同様に私は特定のイデオロギーを支持しているわけではありませんが、私の思想は、人間の本来の在り方について世俗を俯瞰的に捉え、どのような考え方であるべきなのかという意味において原理主義に非常に酷似しています。

そのためあまり純心すぎる思想ではこの厳しい世界を生き抜いてはいけないという意見をもらうことも多々あります。しかしこういう厳しい世界だからこそ原点にかえって人間の精神性に焦点を当ててできる限り幸せと思える考え方になってほしいのです。

さて日が経つにつれてゴミ拾いとは話題かかけ離れていますが、様々な考え方を構成する思想は行動を起こす根幹をなすものですから重要です。ゴミを捨てるという行為そのものを直接的に良いか悪いかの二元論で諭すより、異なる思想を受け入れて疑問を持ってもらうことが本来の意味での自省や自戒に繋がると思っているので、私の思想をここで披露し気づいてもらえたらなと思っている次第であります。

今日は少し仕事について話そうと思いますが、仕事をすることとは現代ではお金を得て生活するための義務的な労働という考え方が一般的ですが、本義は人への奉仕だと思います。仕事とは例外なく誰かに役に立つためにあります。しかし実際に人の悩みを解決したり人に何か役立つことをしてあげたくてやっている人はごく少数で、生活を支えるために義務を負っているという体で仕事を捉えている人が大半ではないでしょうか。

仕事の内容と仕事をする理由や目的に乖離があるのが現代社会です。全てにおいて損得に基づく行動基準があり、行動の成果や見返りを求めることが当たり前の社会では人への施しという意味では金銭的な対価と交換で要求された最低限の奉仕しかしないというのが当たり前の世の中です。

もちろんサービス精神を謳って利益を度外視した商売をしている人もいるでしょう。しかしそれらも競合を出し抜き贔屓にしてもらうための戦略的な行動で対価として見返りを得るという考え方からは脱却してません。

そもそも対価が貰えないならその仕事をやらないのであれば、その仕事を通じて本心から人の役に立ちたいとは思っていないでしょう。

現代の仕事では精神的な充足感や幸福感や魂の向上はなかなか得られないというが私の見解です。本来であれば見返りを度返ししても携わっていきたいと思える仕事をすることが人間の使命だと思いますが、文明人として人並みかそれ以上の生活を手にいれなければならないというプライドが仕事の目的を人への奉仕ではなくお金を稼ぐ手段として捉えてしまっているのではないでしょうか。

お金を稼ぐ手段として仕事を見た途端に様々な手法で利益を確保する算段を立てます。それが倫理的なものかどうかは法律の解釈のさじ加減で判断しているという感じです。法律が許すなら商売において客に対する嘘や欺瞞は方便のうちということです。利益を確保することが優先的になればなるほど人に対する貢献心や利他的行動からは遠ざかっていきます。

商売を批判する気持ちはありませんが、現代では仕事を通して本来の奉仕の精神を学ぶのは難しいのです。今の状態に対し、出来る限り奉仕の精神を持って。。ぐらいが基本的に限界ではないでしょうか。

倫理は愛より先(奥)にあり、更に次元が高いものです。両立自体に疑問を抱きます。
モラルがあるならそもそも商売は生まれず、モラルがないからこそ利益を追い求めるような気もします。
仮にモラルが本当にある状態なら貨幣は「物々交換を円滑にする為の合理的なモノ」以上にはならなかったのではないでしょうか。利益という概念も生まれず、値段による価値基準も生まれなかったと思います。

仕事はどんな場合においても利益を残す、見返りを求める、損得で行動するというのはその仕事の金銭的な価値以上の行動を抑えてしまいます。資本主義社会においては金銭的な利益と仕事というのは密接な相関関係にありますし、お金を稼ぐという宿命からは逃れられませんが、仕事の本来の意味を見出すことができれば多少なりとも各々の精神性を豊かに育むことはできます。

"人の役に立つ"ということはお金をもらう以上に人が欲していることです。"人の役に立つ"ことによって形成される人とのつながりや調和は本来の人間社会の在り方だと思っています。

仕事とは成果や結果をいたずらに求めるものではなく、そのプロセスにおいてどうのように貢献しているかを確かめながら少しずつ歩みを進めていくものだと思っています。この考え方では現代では淘汰されてしまいそうですが、できる限り奉仕の精神を持って取り組むことが望ましいと思います。

 

ガンジーの名言です

重要なのは行為そのものであって、 結果ではない。 行為が実を結ぶかどうかは、 自分の力でどうなるものではなく、 生きているうちにわかるとも限らない。 だが、正しいと信ずることを行いなさい。 結果がどう出るにせよ、 何もしなければ何の結果もないのだ。
 

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自分の正義を固守するか、人の立場を理解するかということについて

最近インターネットで情報を検索しているとやたら自己責任論や自制、自戒をを叫ぶ主張が多いように感じます。マナーやルールを守らなければならない、社会の規範はみ出してはいけない、クレームを出す人間は店側に迷惑を帰るなと過度にその行為に対する自戒を求めたり、社会に勝ち負けの二元論がはびこって収入が低い人間を自業自得と言って切り捨てる。挙げ句の果てに弱者に対してネガテイブな将来性を暗示して不安を煽ったりしてます。

ネットの世界だけだと信じたいですが、どこか自分自身が正義で高みの見物で弱者をこき下ろしているようにしか見えないのです。そして他人の行動を逐一監視して"自分と彼らとは違う"と自分自身を正当化しようとしている人が多いように感じます。

私も人のことを言えた立場ではありませんが、ネットで批判的な主張を見るとどうしても自分が基準であり、自分の尺度で物事を解釈してその価値観を人に押し付けているようにしか見えないんです。

相手の立場にたってもの事を考えることをできている人が少ないように感じます。この悩みを持っている人はどういう経緯があったのかということを深掘りしていけば否定的な見解や自己責任論の押し付けにはならず、建設的な解決法へと考えが自然とむくと思うんですが、厳しい意見が非常に多くてギスギスしている感じに見えます。

批判的な議論の多くは自分自身が納得いかない物事や他人の行動を一般論に変化させ、議論を仮想敵に設定して怒りを発散させているように見えるんです。実際はそんな人はそれほど多くないのに。 

社会的に信用がある論調を盾に一斉に誹謗中傷するのは本当に見てて不快になるんです。

他人のことを考える心の余裕がなかなか持てないご時世ではありますが、もう少し自分のプライドや正義から離れて、自分と価値観の違う他人に対して寛容になってもよろしいのではと思いました。

現代の人々は物事をマイナスに捉えすぎです。

 

 

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ゴミのポイ捨てを見たときにマナーを強制しますか? 相手に暗に気づかせますか?

公共の場所でゴミをポイ捨てする行為について心ない行為だと思っておられる方が大半だと思います。私もそのうちの一人ですし、ゴミを平然と道に捨てている姿をみると非常に悲しい気持ちになります。一般的に社会では非道徳的な行為や、モラルに反する行為などは、モラルを守る側の立場の人の目線や価値観でその行為に対する規制や取り締まりが行われているのが現状です。当たり前の話ですが。

モラルを守らない人に、社会的な秩序を守らせる、ルールに従わせるように規制を設けたり、強制したりする行為は、モラルを守ることが正当だと考えている側のの価値観を無理に信奉させるように私は感じるんです。

 

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こちらの記事にも書かせていただきましたが、モラルというのは本来は人間同士の調和であり、感謝の念から自然と溢れ出てくる行動なのです。だから当事者が自分で気づくというのが重要で、その気づく環境を作っていくことがモラルの本質を見抜いている人の行動だと私は思っております。私はここまで人間ができているとは自分自身思っていませんが、少なくともこのような理想があります。

モラルを守ることができる人が自身の正論をモラルのない人にぶつけて強制的に従わせる流れはどちらかと言えば賞賛される傾向にありますが、モラルを心から遵守するという観点で見ればそれほど効果的なものではないと思っています。

これはあくまでも私の考えですが、モラルが守れる人、守れない人にはそれぞれ違った方向性の目的や役割があり、学ぶべき点も全く違いますし、気づくポイントもそれぞれ補完し合っているのではと思っています。

例えば、ゴミを捨てる人とゴミを持ち帰る人、ゴミを拾う人の精神性はそれぞれ違い、学ぶべきポイントやミッションが違います。ゴミをポイ捨てする人はゴミをポイ捨てすることが社会的にモラルに反しているということを心から学ぶということがミッションであり、ゴミを家まで持ち帰ることができる人は今度は人の為にゴミを拾うというミッションの移行期にいる人であり、ゴミを拾う人は、ゴミをポイ捨てする人が社会的にモラルに反しているということを暗に示して気づかせ心から理解させるというのがミッションであるという具合です。

ゴミをポイ捨てする人がいれば、ゴミを拾う側には何か前向きな気づきがあるでしょうし、ゴミをポイ捨てする人の意識を変えるように行動を変化させるでしょう。またゴミを拾う人がいれば、ゴミをポイ捨てした人は、モラルに反した行動をしているにもかかわらず自分の行動を否定されている感じがして頑なに態度を変えることを拒んでいる自分に気づくかもしれませんし、少しずつ意識に変化が見られるかもしれません。

このようにそれぞれの役割は補完しあっているというのが私の持論です。ゴミを捨てることが悪い、ゴミを捨てないことが良いという厳格な二元論で物事を判断するのではどこかでひずみがくると私は思います。

あなたから見てある人が行っている行動が"悪"と見えるのはあなたの精神性がそれだけ高いということです。そしてその行動を行っている人は世間一般からみて"悪い"とされる行為を自ら"悪い"と自己反省することがその人のミッションかもしれません。

そのミッションを手伝うということを考えると自分のやり方を強制させ、従わせるというのは似付かわしくありません。自分も成長できるという感謝の念を持って"気づかせる"ということが最もふさわしい行為ではないでしょうか? 私はそう思っております。

 

社会の風評や世間のルールを守るということに主眼をおいてしまいますと相手を見下したり、自分と比較したり、相手の行為を糾弾することにつながってしまいます。ルールやモラルを守るという目的を達成する上での手段の一つではありますが、これでは急な改革はできても精神性が育ってない人に改心させたり悟らせることは難しいと思います。

それぞれの人の精神性を手助けするミッションだと思い、奉仕の精神で人に気づかせる工夫をすることは自己の成長にもつながりますし、また負の感情を持たずに済みます。

私自身もこれを実践していますが、イライラしてしまったり、怒ってしまうことも多々ありますが気づいて行動を変えていくことが私のミッションということです。

 

皆さんも気に入らないことに関して好きか嫌いか、善か悪かの二元論で考えるのではなく精神性の違い、ミッションの違いで人との違いを認識してみると視野が広がるかもしれません。

 

 

 

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