Rubbish Collection in Hiratsuka

湘南平塚でゴミ拾いをしている人のブログ

人を動かすということについて

本日は雨天のためゴミ拾い中止です。非常に激しい雨が降っていたので強行を断念しました。突発的な天気の崩れに度々習慣を乱されますが仕方ありません。

さて今日は人を動かすということについて話したいと思います。私の短い人生の中で培った経験では皆さんを納得させられるほど深い見識を披露できるわけではありませんが、ゴミ拾いに絡めて私がゴミを捨てる人に対してどのように動いてもらいたいと考えているかを話します。

人を動かす最も単純明快な方法は強制力を持ってこちらの意図に従わせることです。従わなかった場合のリスクや従った場合の報酬をチラつかせて強制的に従う理由を人に植え付ける方法です。

人は他人の意図に従うことに対して何らかの理由や根拠を探します。やれと言われたことを素直にやるのはそれだけの理由があるからです。

人は依頼された内容と報酬またはリスクとの間に合理性を求めます。 人の損得勘定を揺さぶって強制力を発揮させようとすると作業の量と報酬の度合いやリスクの大きさを天秤にかけて自分にとってのメリットを判定しより自分にとってフェアな評価が下される場所へと移動します。

会社に勤めている場合、指示された仕事を拒否することによるリスクや、仕事を真面目に続けた場合の報酬や評価が自分の生活の質に関わってくるので多分に強制力が働いています。

しかしゴミ拾いの場合は違います。ゴミのポイ捨てをやめることによる強制力などないに等しいのです。これは完全にモラルを遵守するかしないかの個人の良心の問題で、何らかのベネフィットを与えて強制力を植え付けるものではないのです。

そのため注意や呼びかけなどは極めて一過性の施策にすぎず、ポイ捨ての抑制を持続させるものではありません。それだけポイ捨てをやめさせるというのは自主的思考の属性が高い案件です。

自主性にしても自分自身に"ポイ捨てをやらない"という理由を作らなければなりません。結局のところ率直で誠実な評価を"ポイ捨て"をしている人自身が自分に向けて与える環境が必要だということです。

自分自身の行いを気づかせることが"ポイ捨てをやらない"理由になる最初の一歩です。だから注意をして反発心を招いては、感情的にポイ捨てをやる理由を与えてしまいます。お前らから注意される筋合いなどないと。。。

ゴミのポイ捨てを例にとれば、ポイ捨てをする人"の意識とその地域に住む人の意識の乖離が"気づかせる"きっかけになります。

路上が綺麗に掃除されていることが当たりまえ、自主的に外を掃除するのが当たり前という雰囲気を作れば、捨てることに対して居心地の悪さを感じると思いませんか?

それが気づかせるということです。そしてその雰囲気を作るには感謝が必要です。人に何かを感謝されると、その何かを常に当たり前にやってきた自分が評価されたという心理状態になります。

この感謝が、感謝される内容と真逆のことをしてきた人間に向けられると、その人間は自分の行いとその感謝のギャップに苦しめられます。ポイ捨てがモラルに反していることを知りながらポイ捨てを続けてきたということに対して自分自身に正当な評価を下し自省しようとするでしょう?

極めて自主性が高い案件にたいして人をこちらの意図にしたがわせようとするなら、それをやらなければならない理由を気づかせる環境を作る方が、口頭の指示や注意よりもはるかに持続性があります。多少時間はかかりますが、同じ属性の人間が増えればたちまち暗黙のルールが形成されるでしょう。 

人間の価値観は大なり小なり環境にものすごく左右されるので、人に影響を与えられる環境がない場合は地道に作っていくしかありません。